「数学は情緒」で有名な岡潔についての本.
さっぱり分からないところを飛ばしつつ(笑),2周目の途中.
特に気になったところを,自分の言葉にして理解を深めようとしています.
今回が3回目.何回続くか?
本当に「分かる」とはどういうことか?
例えば,ポアンカレの「証明の隅々までハッキリわかる」という分かり方,は“余計なこと”だという.
「鏡に影を映す」だけだから.「親しく会取」したに過ぎないから.
そういう分かり方(頭,目,論理での理解?)では,「発見の鋭い喜び」は伴わないものだ,と.
裸で街を飛んで帰ったアルキメデスは「発見の鋭い喜び」を感じていたはずだ.
ちなみに,「発見の鋭い喜び」は,『まるで砂糖分が体内に長く残っているといった感じの悦び』だそうだ.
アルキメデスは素敵なことだが,裸で・・・というのは日本人には真似できないもの.
同じ悦びでも,感じ方に洋の東西の違いがあって,ギリシャ情緒の象徴ともいえる「ミロのビーナス」がどう見ても「冷たく人を威圧する」ようなところがあるのに通じている(私にはよくわからん!).
芥川の「ギリシャは東洋の永遠の敵である.しかしまたしても心がひかれる」が思い出される.
「不思議だなぁ」「なんだか良いなぁ」という情緒による理解,「よく分からんが最初と最後だけは分かるよ」という感覚らしい.
これが,西洋にはない,日本的な感覚で理解するということ.
ただし,「日本>西洋」と岡潔が言っているわけではない.
質の違いである.
「自分のルーツは日本である」から,そのように研究する,ということのようである.
常にどちらかであれ,というのではなく,モードを切り替えることも大事だと分かっていらっしゃる.
と思えば,次のような問題発言も・・・
日本の無形の文化から見ると,欧米の有形文化は
高い山から谷底見れば瓜や茄子の花ざかり
という歌の如し.
(私が言っているのではないですよ!)
支離滅裂??
なんて言っていると,「頭で知的に理解しようとするからだよ」と岡潔に怒られそうです(笑)
禅問答でもやっているような気分になってきます.
岡潔が言うには,ものの見方,理解の仕方など,すべては3層からなっているそう.
「不定域イデアル」という現代の「層」の理論に通じるものを作り出した岡潔.
構造把握には長けていたのでしょうか.
ちなみに3層とは
①社会
②自然界
③法界
①は,自他の別がある世界.
②は,時空の枠のある世界,理性の働くところ,観念の言い表せるところ
③は・・・ここがわかったら苦労しない.
法界のことも言語化したら自然界に移ってしまうような感じかな?
①の分かり方は「知解」
②の分かり方は「情解」
③の分かり方は「信解」で,何が分かったか分からないが,一切が分かった感じ(?).
①→②→③という順を追って理解が深まるというものではない!
むしろ③→②→①という順であることもあるものだ.
庭の花を見るのでも
●知的な見方:
ダッチ・アイリスが終わってぼたんのつぼみがふくらんでいる.
●感覚的な見方:
ダッチ・アイリスの葉はみどり,ぼたんの葉もみどり,
ダッチ・アイリスの花は青,ぼたんのつぼみはやや赤みをおびている.
(これも視覚重視で・・・岡潔はお気に召さない)
これらは①?
●存在感と見る見方:
自然は確かに存在する.
目を閉じても,感覚は残る.
まざまざとした実感を伴って.
これが②だろうか?
「大自然」の上っ面としての「自然」を見ている,というような説明があった.
●情緒と見る見方:
花はいいなぁ.
なぜそう感じたのかは知らないけれど,いいなあ,と感じている.
岡潔にとっての数学研究は,情緒を数学という形に表現すること.
けれど,どのようにして表現しているか,というところは分からない.
無意識に大自然(自然を自然たらしめているもの)の理法を悟っているから.
大自然の理法は,とうてい人の力のおよばないことだし,大自然が勝手にやってくれるから任せておけばよい.
人がしなければならないことは,「情緒をきれいにすること」だけだ.
情緒は,「いのち」の一片だと思っているのだ.
ちょっと宗教じみてきました.
仏教に傾倒していたという岡潔.
次はその辺に進んでいきそうです.