読み込んで少し岡ワールドが見えてきたような気がするのですが,たぶん勘違いなのでしょう(笑)
天才が何十年もかかって到達した「数学は情緒」ですから.
私の理解を深めるための言語化プロジェクト.
備忘録みたいなものですが,公開するつもりでないと書かない!
ということで今回が4回目.
岡潔の仏教の世界へ.
ものには生の一面と死の一面があるそうです.
目に見えるところだけを見ていると,すべてには「終わり=死」があります.
けれど,「生≠生きている」です.
現象としての「生きている」ではなく,命の根源としての「生」.不生不滅.
「見る」ことで分かるのは,「死」だけ.つまり,現象だけ(死のあるもの).
では,「生」を知るには?
右の内耳に関心を集めよ
と彼は言っています.
右の内耳に関心を集めて,聞こゆるを聞き,見ゆるを聞くこと(見る,でない!).
精神集中.
弱いものからはじめて強きに至りなさい.
軽いのからはじめて,浅い統一にし,だんだん増していけばよい.
観音菩薩は,この一つの修行だけで不生不滅を悟ったと言われているそうな.
ちょっと宗教じみてきましたね(笑)
私も悟りを開いてしまおうかな,と思っているところです.
ではなぜ,岡潔は仏教に傾倒していったのか?
本文を引用してみる.
『太平洋戦争が始まったとき,私はその知らせを北海道で聞いた.その時とっさに,日本は滅びると思った.そうして戦時中はずっと研究の中に,つまり理性の世界に閉じこもって暮した.
ところが,戦争がすんでみると,負けたけれども国は滅びなかった.その代わり,これまで死ねばもろともと誓い合っていた日本人どうしが,われがちにと食糧の奪い合いを始め,人の心はすさみ果てた.私にはこれがどうしても見ていられなくなり,自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった.生きるに生きられず,死ぬに死ねないという気持ちだった.これが宗教の門に入った動機であった.』
純粋な岡潔の心が耐えられなくなって,仏教を自然に求めた様子が分かります.
特に,道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」にどっぷりとはまったそう.
正法眼蔵は,ちらっと見ても,さっぱり意味不明です.
本当に,何が何だか,さっぱり分かりません.
おそらく岡潔もそうだったのだろうと思います.
それが・・・
ある日,突然,すべてが分かってしまう経験をしたようです.
何が分かったのかは分からなくても,すべてが分かったという感覚・・・
それが,「情緒で分かる信解」という彼の主張につながっているように思います.
「智ある者,若(も)し聞かば,即(すなわ)ち,よく信解せん」
と正法眼蔵にあるそうです.
「見らば」ではなく「聞かば」なんですね!
岡はこんなことも言っています.
『法界のみが実相界であって,社会や自然界は仮象界である,真善美妙は法界にしかない.私は真善美は「実在」であるが,妙(宗教)は「必要」だと思っている』
こういった心の部分を説明してくれるものは「仏教しかない」のだそうです.
仏教に傾倒しているように見える岡潔ですが,しかし,そうばかりではないようです.
面白い記述があったので,引用して,本稿は終わろうと思います.
『宗教の世界には自他の対立はなく,安息が得られる.しかしまた自他対立のない世界は向上もなく理想もない.人はなぜ向上しなければならないか,と開き直って問われると,いまの私には「いったん向上の道にいそしむ味を覚えれば,それなしには何としても物足りないから」としか答えられないが,向上なく理想もない世界には住めない.だから私は純理性の世界だけでも,また宗教的世界だけでもやっていけず,両方をかね備えた世界で生存し続けるのであろう.』
悟りを開いた「如来」でなく,修行中の「菩薩」でありたかったのかも知れませんね.
今回は数学の“す”の字も出てきませんでした(笑)
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