「数学は情緒」で有名な岡潔.
その「最終講義」「留学時の話」「エッセイ」などを集めた本で,森田さんの解釈が分かりやすいですが・・・
一回読んだだけでは,やっぱりあまりよく分からない(笑)
言葉にする方が理解が進むと思い,私が感じたことをブログに書いていこうと思います.
何回になるか分からないですけど.
「情緒」って何??
辞書的には
1 事に触れて起こるさまざまの微妙な感情。また、その感情を起こさせる特殊な雰囲気。「情緒豊かな作品」「異国の情緒があふれる」「下町情緒」
2 「情動」に同じ。「情緒不安定」
となっていますが,岡潔は別の意味で使っているようです.
そのことを知らずに「数学は情緒」という言葉だけ聞くと,「情緒」という言葉が独り歩きしてしまう.
とはいえ,岡潔も明確な言葉で定義していません.
「理解」するものではなく,「体得」するものだと言いたいようです.
目に見えるものを「知的に理解」することを重視しがちですが,実は「情的にわかる」というのが基礎にあって,分からないものに関心を集めているときには既に情的には分かっている.
なんのこっちゃ?
秋になると畑にはカボチャが実ります.
その事実は目で見てよく分かります.
自然ってすごいな,と思います.
でも,本当にすごいのは,カボチャの小さな種に,芽を出して,茎をのばし,花を咲かせ,実をつけるというストーリーがすべて組み込まれているということ.
そんなもの,人に作れますか?
カボチャにはカボチャの主宰性があって,それが働いている.
人には人の主宰性.
自然を自然たらしめているものを「絶対的な自然」という意味で「大自然」と呼ぶ,と彼は言っています.
人類という大きな木の1枚1枚の葉が個人で,主宰性や絶対的な知恵は,大きな木を通してみんなで共有している.
そこで働くものが情.
情を通じて,自他の区別はなくなる.
岡潔は,情の個別の部分を「情緒」と呼んでいるようです.
数学に数学の主宰性.
数学は情緒.
絶対的な法界というところに数学はあって,人はそれに情緒を使ってアクセスしている.
新しい発見のときに「懐かしさ」を感じるのはそういうこと.
ただし,懐かしさとは,「生きている喜び」.
幼児が自覚的でなくただ何となく幸福なのと同じ感覚.
確かに,岡潔のレベルでなく,私のレベルであっても,ひたすら考えてスッと分かってしまうとき,一瞬で頭の中で流れが見えるし,すでにそこにあったような気がするし,懐かしさを感じる気がする.
知的に分かり,知的に伝わるような形式(解答や論文)にまとめることが数学ではなく,「数学は情緒」なんですね.
知的部分は,単なる作業と言えるのかも知れません.
何となく,こんなことを書いているような気がしますが,よく分からないです(笑)
岡潔のビジョン体験とまでは言わなくても,情緒体験くらいは数学教育を通じてさせてあげたいものですね.
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