少しずつ岡潔ワールドの一部が見えてきたような,見えていないような.
私の言語化プロジェクト(実際は備忘録)も5回目.
そろそろ終わりかなと思いつつ,もう少しだけやらせてください.
「ピカソと無明」
そんなタイトルの項がありました.
岡崎でのピカソ展に行って感じたことを書いています.
そういえば,私の好きな人に,岡本太郎さんが居ます.
彼もピカソのことをよく書いていました.
同じく,私の大好きな存命の素敵な方も,ピカソがお好き.
私もピカソ好き.
ピカソは古代人のような感性を持っているように思うからです.
縄文時代のモノが大好きな私ですが,あの感じがあります.
縄文からアニミズム的な感じを取り除いて,代わりにエロスをいっぱいにした感じ.
本能的なものがストレートに表されている.
一方,知的な面もあるように思います.
対象に興味をもったら,いったんそれを連続的に変形して,自分の好きな状態にし,画面に再現している感じがします.
トポロジカルな感じがします(元の対象とイソトピックだったり,同相だったり).
境界線を追いかけていると,すごくスムーズで気持ちいいです.
もちろん,作風が恐ろしく多様なので,こんな陳腐な説明ではぜんぜん言い尽くせないですけど.
岡本太郎は,縄文土器(火焔土器)に感動して,縄文を再現しようとしていたようです.
太陽の塔なども,土偶を作っていたと思うと,理解しやすい面があります.
では,岡潔は,ピカソをどう感じたのか?
『「無明(むみょう)」が実によく,実に恐ろしく描かれていた』
『無明とはこんなに恐ろしいものかと,しみじみ考えさせられると同時に,さすがは世界的な巨匠の絵だと感心した』
ということだが,『一枚一枚立ち止まって丹念に見る気にはなれず,ましてもう一度見直す気もしないまま,せいぜい三十分ぐらいで会場を出た』そうである.
ところで,「無明」とは?
ちゃんとした定義は本書から見つからないですが,説明を拾っていくと
・自我の本体(自我は自他を区別する類のもの)
・自分本位のセンス
・生きようとする盲目的意思
とのこと.
ここでいう「生きる」は,その先に「死」があるという意味のものと思われる.
生物というときの「生」.
つまり,全宇宙とつながっている「生」ではなさそう.
一緒にピカソを見た若い人たちの「ものすごく生きている」という感想を,「いまの若い世代はのた打ち回ることを生きていることと思っているらしい」と,彼は解釈している.
岡崎で見たピカソ展には「女性と馬がものすごい勢いでのた打ち回っている状態を表した絵」がかかげられていたそうだ.
だからこそ,無明をよく表している絵だということ.
しかし,
『これは美とは言えないと思う』
と岡潔は述べている.
この言葉が,私は妙に引っかかった.
岡本太郎は,「今日の芸術は,うまくあってはならない,きれいであってはならない,ここちよくあってはならない」と言い,この無明の現れこそを「美」と捉えていたように思う.
縄文からビッシビシと感じるアニミズム感.
奇祭での炎と裸体のぶつかりから感じる魂の高ぶり.
命がけのチャレンジでの高揚感.
そのようなものを「美」と呼んでいたと思う.
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岡本太郎の版画(私物)です.
岡本太郎もなかなか面白いです!
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上に書いた私の感想は,岡潔に言わせると,知的・視覚的な見方で,情緒的には見ていないのだろう.
情緒で見たら,気持ちいい絵ではないぞ,と.
伝わってくるのは自我だけじゃないか.
一方で,太郎には「自我を爆発させるのが芸術だよ.それこそが美じゃないか」と言われそう.
まったく逆の感覚であると思うが,どちらが正しいというものでもないような気がする.
僕は個人的に,岡本太郎の感覚に賛同するけれど.
岡潔は,以下のように締めくくっている.
『無明がどんなに恐ろしいものか,どれだけ知っても知り過ぎることはないだろう.その意味で,わたしはピカソの絵を見るようにおすすめする』