yoshidanobuo’s diaryー高校数学の“思考・判断・表現力”を磨こう!ー

「大学への数学」執筆者・吉田信夫の数学探求ブログ(共通テスト系問題の研究報告)

「数学する人生」岡潔著・森田真生編 ⑥ =学びについて=

「数学は情緒」

分かったようで分かっていないような・・・
ぼーっとずーっと考えていたら,きっと,よく分からないけど,ぱーっと全体が何となーく分かるのでしょう.
本シリーズの最後として,学び・理解・教育について書かれているところをまとめてみようと思います.
ちょっと長くなりそうです・・・

 

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三昧(ざんまい)=精神統一

岡の数学研究は,二年くらい関心を集め続けたら,1つの論文になるそう.
しかし,長期にわたって1つのことに関心を集め続ける(三昧)と,情緒の中心が生理的に大変疲れる.
二か月くらいは休まないといけなくなるが,それを怠ると,漱石のように早く死んでしまう.

彼の数学研究では,「ポシビリティ(可能性)」を手がかりにするそう.
それよりも漠然とした「ポシビリティのポシビリティ」=「でたらめ」を毎日1つ考える.
「でたらめ」を10集めたら,1つくらいはポシビリティであるらしい.
ポシビリティを10集めたら,1つくらいは「ファクト」つまり「事実」が見つかる.
100のでたらめを並べて1つの事実が見つかる.
これの繰り返しが研究になるそうだ.

数学の本質は,主体である「法」が客体である「法」に関心を集め続けてやめないこと.

しかし,彼の言う「法」が分かりにくい!
うわべのものではなく,何だか分からないが「ある」ものの総称?
法を集めても法だし,法が法に関心を集めるのが情緒の中心の働き.
すべては法界で1つにつながっている,という感じのことを言っているような気がします(知らんけど).

『法に精神を統一するためには,当然自分も法になっていなければならない(主宰者の位置は客体の所にあるのだから.そうすると当然「自他の別」を超え,「時空のわく」を超えることになる).そうするといわば内外二重の窓がともに開け放たれることになって,「清冷の外気」が室内にはいる.これが児童の大脳の発育にとってきわめて大切なことであって,義務教育における,数学教育の意義の第一はここにあるように思われるのである.』

さっぱり分からない!!


自分と数学がともに窓を開けて交わりあうのでしょうか?
それには関心を集め続けることが必要になる.
自分を内から制御している「主宰者」の側に立つということか?
確かに,1つの分かが積み重なって,あるときに一気に全体が繋がるような体験は(誰にでも?)あるもので,数学では特にそういう経験を起こしやすいのかも知れない.
深くわかることによって得られる一体感.
無関係と思っていたものも自分の中でつながって,よりよく思えてくる.
深さに限りがない.
そういう学びをすることができたらよいですね.
そして,児童をそのゾーンに案内できるような先生がたくさん居たらよいですね.
一般に良いとされる先生は,すぐに「合理的な方法」を「教えてしまう」人と思われてますから・・・


この具体的な説明として,小学校での教育について触れています.


『算数教育は,まだわからない問題の答,という一点に精神を凝集して,その答えがわかるまでやめないようになることを理想として教えればよいのである.答がわかるというのは,当然自分にわかるといういう意味であるから,以前のように検算はやらせた方が良い』


その発展として,分かり方を整理している.


『先生が山とか川とか木とかを教えるとき,例をもって教える.児童のこのわかり方は,「感覚的に分かる」のである.「形式的にわかる」と言ってもよい.もう少し深くわかるのは,意味がわかるのである.これを「理解する」という.しかしここにとどまったのでは,いろいろの点で不十分である.まず知的に言って,進んで「意義」がわかるまで行かなければいけない.でないと,えてして猿の人真似になってしまう.意義がわかるとは全体の中における個の位置がわかるのである.だから,全体がわからなければ何一つ本当にはわからない.このわかり方は言わば心の鏡に映るのである.』


さらに,わかり方について,次のようにも続いている.


『たとえば他の悲しみだが,これが本当にわかったら,自分も悲しくなるというのでなければならない.(中略)他の悲しみを理解した程度で同情的行為をすると,かえってその人を怒らせてしまうことが多い.軽蔑されたように感じるのである.
これに反して,他の悲しみを自分の悲しみとするわかり方であると,単にそういう人がいるということを知っただけで,その人には慰めともなれば,励ましともなる.このわかり方を道元禅師は「体取(たいしゅ)と言っている.ある一系のものをすべて体取することを,「体得」すると言うのである.
理解は自他対立的にわかるのであるが,体取は自分がそのものになることによってそのものが分かるのである.』


そして,


 聞くままにまた心なき身にしあらばおのれなりけり軒の玉水


という道元の言葉を引いている.

「見る」でなく,「聞く」である.
すべて一体であるという境地に至っていれば,軒先から垂れる水滴と自己を同一視することもできる.
はっと気づくと,我に返る.
そういう風にわかりたいのだろう.


彼が重視した「情緒」について,比較的分かりやすいところを整理して,本シリーズを締めくくりたい.


明治以前の古人は

 「四季それぞれよい」
 「時雨のよさがよくわかる」

であったのが,我々は

 「夏は愉快だが冬は陰惨である」
 「青い空は美しい」

と,他を悪いとしなければ一つをよいとできなくなっている.
刺激をだんだん強くしていかないと,慣れてしまう.

これに対し古人は,それぞれみんなよい,種類が多ければ多いほど,どれもみなますますよい,聞けば聞くほどだんだん時雨のよさがよくわかってきて深さに限りがない,こういった風である.

古人的評価の対象となり得るものが「情緒」なのである.


結局,すべてと一体化して「よいなぁ,楽しいなぁ,どこまでも」と思えたら良いのですかね.
「理解」だけして「よし,わかった」と思って終わりにせず,どんな些細なことも深められる情緒を育てましょう,と.